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まんぷくモデル「安藤百福」。50歳からでもあきらめない気持ち!

そろそろ50歳、あなたは今どんな気持ちですか?

人生も折り返し地点。あとはただ時間が過ぎて老いるのを待つだけ…なんて思っていませんか?

そんなあなたに、連続ドラマ小説まんぷくのモデルにもなった、日清食品の安藤百福氏を紹介します。

47歳で全財産を失ってから、チキンラーメンやカップヌードルを開発した彼の晩年とは?

50歳からでもいろんなことにチャレンジできる!と、きっと勇気づけられることでしょう。

事業成功後の47歳で味わう人生のどん底。そこからラーメン開発へ。

安藤百福氏は、1910年に日本統治時代の台湾で生まれました。幼い頃に両親を失った安藤氏は、祖父母の厳しいしつけから、社交やマナーを幼い頃より身につけて育ちます。

14歳で台湾の義務教育を修了すると、祖父母の呉服屋で働きます。実践を通して経営を学び、22歳の若さでメリヤスを販売する会社を設立しました。

スライド映写機の前進である幻灯機の製造、炭焼き、バラック住宅の製造など次々と事業を起こし、成功を収めていきます。

しかし、この流れでチキンラーメンやカップヌードルを開発し、ミスターヌードルとも呼ばれる成功者になったわけではありません。

彼は47歳で大阪府池田市の借家以外の全財産を一度失うのです。

安藤氏が理事長を務めていた信用組合が破たんし、無限責任を負ったのでした。

もし、あなたが50歳手前で全財産を失ったら、どうしますか?

人生に絶望し、すべてをあきらめますか?彼もいったんは自宅に引きこもりますが、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身についた」と、そこから自分を奮い立たせるのです。

彼は、戦後の大阪の闇市でラーメンの屋台に並ぶ人々と日本人が麺類好きであることを思い出し、食の大切さや需要が隠されていることを確信し、インスタントラーメンの開発を始めるのでした。

チキンラーメンを開発。死にものぐるいの日々が成功へつながる。

安藤氏は自宅の裏庭に建てた小屋で、お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメンの研究を開始。

ラーメンに関しては素人でしたが、道具や材料はすべて自分で探し集めました。

1日平均4時間という短い睡眠時間の中、たった一人で1日の休みもなく研究を続けました。しかし、なかなか思うようにはいきません。

ある日、妻が調理していた天ぷらを見て、「そうか。麺をを揚げればいいんだ」とひらめきました。

それから約1年。

試行錯誤の末にチキンラーメンを完成させました。

チキンラーメンが誕生した1958年頃から、共働きや核家族が増え、お湯を注ぐだけで食べられるチキンラーメンは主婦の味方に。

チキンラーメン

また、その前年にスーパーが日本に初めて作られ、インスタントラーメンなど加工商品を大量販売するルートが開拓され始めました。

さらに、日本ではテレビCMが影響力を強め、そこでチキンラーメンを宣伝したことも知名度を広げていきました。

こうして安藤氏は、創業5年目で年商43億円企業の社長となったのです。

チキンラーメンを世界に広げようとした安藤氏は、欧米視察旅行の際に、欧米と日本との食習慣の違いを知りました。

そこから、フォークで食べられるインスタントラーメンを作ることを決意し、1971年にカップヌードルが完成しました。

61歳のときです。

カップヌードル

最初は高額でなかなか店頭に並べてくれませんでしたが、歩行者天国で実食販売をするなど努力を重ねました。

奇しくも浅間山荘事件で機動隊がカップヌードルを食べている姿がテレビで映し出されたことにより、人気が爆発したのでした。

 

社長引退後も続く、探究心、好奇心。そして、社会貢献への思い。

こうして47歳のどん底から成功を収めた安藤氏は、社長引退後もさまざまなことにチャレンジしています。

一体どんなことにチャレンジしたと思いますか?

社長業を譲った安藤氏は、ずっと気になっていた「日本人は何を食べてきたのか」の答えを探るべく、4年間にわたり日本各地に足を運び、郷土料理を食べる旅をしました。

これだけで終わらず、さらには「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という問いの答えを求めて、中国、中央アジア、イタリアなどを巡る旅に出ます。

学者に依頼し、シルクロードを探検させ、麺のルーツをたどる系譜図まで作っています。

彼が残した功績はチキンラーメン、カップヌードルだけではありません。

宇宙食を開発したいという強い希望から、世界初となる宇宙食ラーメン、スペース・ラムの開発にも取り組みました。

2005年スペースシャトル・ディスカバリーに搭載され、日本人宇宙飛行士の野口聡一氏が食べる様子がテレビで放送されました。

また、安藤氏は、災害の救援活動やスポーツの振興にも貢献してきました。

1995年の阪神淡路大震災では、当時84歳の安藤氏が直接指揮を執り、震災直後の被災地に合計100万食もの即席麺を提供し続けました。

安藤スポーツ・食文化振興財団を設立し、子どもたちの健全な育成のためのスポーツ振興事業と食文化の向上にも大きく尽力しました。

 

まとめ

いかがでしたか?

もしかしたら、安藤百福という特別な人間だからこそできたと感じた人もいるかもしれません。

ただ、例えば「5年間必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる」という言葉はどんな人にでも通じるのではないでしょうか。

大事なことはそれを実行できるかどうか。

どんな些細なことでも構わないので、あなたも新しいことにチャレンジしてみませんか?

定本・安藤百福 (中公文庫) (日本語) 文庫 – 2013/11/22