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50歳で経営を始めたマクドナルドの創業者レイ・クロック

ハンバーガー

アメリカの実業家レイ・クロックという人物をご存じでしょうか。きっと、名前も聞いたことがないという方も多いと思います。
では、「マクドナルド」ならどうでしょうか? 知らない人はいないはず。レイ・クロックはマクドナルドの創業者です。

マクドナルド兄弟との出会い

クロックは1902年イリノイ州に生まれ、第一次世界大戦中に15歳で高校を中退して、年齢を詐称しアメリカ赤十字社の救急車運転手の訓練を受け衛生隊に所属。世界大恐慌中には紙コップのセールスマンや不動産業など数多くの職業を経験。第二次世界大戦後はミルクセーキミキサーのセールスマンをしていました。

その頃、カリフォルニア州サンバーナーディーノで新しいレストランを開くマクドナルド兄弟が、一度に8台のミルクセーキミキサーを購入したことから、1954年クロックは兄弟と出会うことになります。

マクドナルド兄弟からフランチャイズ権を獲得

マクドナルド兄弟の店舗では従業員が効率的に動けるように、すべてが分業制になっているのをクロックは目にします。
パテを焼く・バンズに挟む・ラッピングする、すべて分業です。高品質と素早いサービスにより注文からわずか30秒でハンバーガーを出していました。

この簡略化・効率化というマクドナルド兄弟が作った革新的なオペレーションシステムに大変な感銘を受けたクロックは、大きなビジネスチャンスと考え、すぐにフランチャイズ権を獲得。
1955年4月、52歳でイリノイ州に最初のフランチャイズ店を出店します。

どのお店でも同じ味、品質の商品を提供

その後、チェーン展開を進め1960年には全米で200店舗にもなります。

マクドナルドの看板

しかし、クロックは、多店舗展開を嫌うマクドナルド兄弟に対し不満を持つようになりました。数々の確執はあったのですが、交渉の末にマクドナルド兄弟から会社の全ての権利を買収。1961年59歳の時でした。

クロックは経営者として、店内は常に清掃された状態に、店員も常に身だしなみを整え清潔に、子供に対しても丁寧に対応するよう求めます。

従業員の作業も標準化を行い、フランチャイズ加盟店に対して厳格なルールを課して、どの店でも同じ味と品質の商品が提供できるようにしたのです。

諦めなければ、夢は必ず叶う。

1984年にクロックが死去するまでに、マクドナルドは全米で7500店舗、世界の31の国と地域で店舗を展開するまでに発展しました。
慈善事業としてもクロック財団を通じて、病児とその家族のための宿泊施設「ドナルド・マクドナルド・ハウス」を設立しています。
最後にレイ・クロックはこんな名言を残しています。

【努力もせずに手に入るものではないが、諦めずに頑張り通せば、夢は必ず叶う】

補足  レイ・クロックを更に詳しく知りたい方には
映画  「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」
単行本 「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝」をオススメします。